石田三成ってだれ?

 

石田三成 (1560〜1600)

戦国武将。
近江の国・石田の里(滋賀県長浜市石田町)に生まれる。
 

 少年時代に豊臣秀吉に見いだされ家臣になる。
いわゆる「猛将タイプ」ではなく、実戦指揮においてはさしたる武功はなかった。しかし、補給や輸送といった後方支援や、検地・刀狩りなどの事務処理、また外様大名との外交折衝など「官僚派」として才幹を発揮し、秀吉の片腕的存在となる。 腕っぷしではなく、知恵を武器にして忠勤に励む三成の姿に、秀吉は「自分に並ぶ異才である」と賞賛し、彼を五奉行の筆頭に据えた。
 しかしその一方で、加藤清正・福島正則・黒田長政といった、槍一筋でのし上がってきた「武断派」大名には毛嫌いされていた。
また、真面目一方の堅物で、「主君にもらった給料はすべて主君のために使うべきである」と公言し、自ら実行していたというから、周りの同僚たちにとってはさぞ迷惑であったろう。(笑)
 (三成の居城である佐和山城が落城した後、「秀吉の元で権勢をふるった三成だからさぞ金品をため込んでいるだろう」と期待して乗り込んできた攻め手の軍勢はあまりに質素で粗末な城内の様子に驚いたという)

 秀吉の死後、露骨に政権奪取を目論む徳川家康に対し、三成はあくまで秀吉の遺児秀頼を守 ろうとして対立するが、三成を嫌う清正や正則ら(彼らも三成同様幼少時から秀吉に育てられた子飼いの家臣である)を自軍に取り込むなどの、家康の老獪な戦略にはかなわず、関ヶ原の戦いで 敗北。数日間山中を逃走するが捉えられ斬首。しかし首を打たれるその瞬間まで再起の望みを捨てなかったという。
 享年41才。

 しかし、例え敗れたとはいえ、嫌われ者であるはずの三成が、家康に対抗するだけの数の味方を集め、五分の戦いを演じることが出来たのは、やはり彼の並はずれた器量を示すものだろう。
 多くの家臣達が秀吉に恩義を感じながらも、自分かわいさに家康に寝返った中、豊臣家に忠節を尽くし、最後まで望みを捨てなかったその姿勢に魅力を感じるものである。

 

逸話その1 秀吉との出逢い

 子供の頃、寺で勉学に励んでいた三成であったが、そこへたまたま秀吉が休息に訪れた。喉の渇いた秀吉が茶を所望すると、三成は大きな茶碗にぬるいお茶を 七、八分入れてもってきた。一気に飲みほした秀吉がもういっぱい所望すると、次は少し熱いお茶を半分くらい入れてもってきた。試しにもう一杯と頼んでみると、今度は小さな茶碗に熱〜いお茶を少しだけ入れてもってきた。その気配りに感激した秀吉が、彼を家来として連れて帰ったという。
 

逸話その2 働き過ぎ?

 大阪城で台風に見舞われた翌朝、三成はその当番でもないのに朝イチで城内見回りをして被害状況などを秀吉に報告した。あとから当番のものが見回りをして秀吉に報告すると「遅い!」と言って怒られた。決められた時間にきちんと見回りをしたのに、三成のせいで怒鳴られる羽目になってしまったこの当番の家来。なんか可哀想?(笑)
 

逸話その3 島左近(しま さこん)

 実戦指揮に弱い三成は、当時猛将として勇名を馳せていた島左近を家臣に迎えようと思った。しかしその頃まだそれほど地位の高くなかった三成の元へ、左近のような高名な人物が来るはずがない。ところが三成は、当時の自分の給料4万石のうち、なんと半分 近い1万5千石を与えるからと言って左近を口説いた。感激した左近は、三成に仕えることを誓った。その話を聞いた秀吉は、「主君と家臣の給料が 変わらないなどというのは聞いたことがない」と感動し、左近に、「よく三成を助けるように」と命じたという。
 

逸話その4 窮鳥懐に飛び込む

 秀吉の死後、豊臣政権は不安定なものであった。特に五奉行の筆頭として政治の実務を担っていた三成に対し、加藤清正・福島正則・黒田長政・山内一豊など武断派大名の反発は並大抵ではなかった。その対立を影であおっていたのが家康である。
 初めは、秀吉の親友であり人気実力で家康に拮抗する存在であった
前田利家が両者の緩衝役になっていたが、一年後利家が亡くなると、武断派の不満は一挙に爆発。兵を挙げて三成の屋敷を襲った。いち早くそれを察知した三成は、事前に屋敷を抜け出し、なんと相手の黒幕である家康の屋敷に飛び込んで保護を求めたのだ。
 表向きには豊臣家に忠誠を誓っている立場の家康としては、こうして堂々と助けを求められては断るわけにもいかず、しぶしぶ仲裁役を買って出たのだった。

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