自分の死後、幼い跡継ぎの秀頼の行く末を案じた秀吉は、秀頼を盛り立て豊臣政権を守っていくための制度として五大老と五奉行を定めた。 五大老とは立法機関であり、豊臣家に忠誠を誓った有力大名5人が任命された。 五奉行とは、五大老の下で実務を司る機関とされ、秀吉の家臣で、官吏としての行政処理能力に長けた5名が任命された。 |
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五大老 |
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徳川家康 |
五大老の筆頭。織田信長の死後、秀吉と対決するが、秀吉の外交戦略にかなわず、忠誠を誓う。 秀吉没後、関ヶ原戦で石田三成を筆頭とする反対勢力を一掃し、権力を一手に握る。更に15年後、大阪夏の陣にて豊臣家を滅ぼし、徳川政権を盤石のものにする。 250万石。 |
前田利家 |
若い頃からの親友として陰に日向に秀吉を助けてきた。勇将として若い武将達からも信頼される。信義を貫き豊臣家を守ろうとするが、
病には勝てず、「秀頼公をお守りせよ」との遺言を残し、秀吉の死からわずか1年後に病没。 跡を継いだ長男・利長は家康の圧力の前に屈服し、関ヶ原では東軍に味方する。 80万石。 |
毛利輝元 |
中国地方の雄・毛利元就の孫。 五大老中、家康に次ぐ身代の大きさを期待され、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として大阪城に入るが、決断力に欠け、関ヶ原で三成が敗れると、為すすべもなく降伏している。 幕末に日本を動かした長州藩の祖である。 120万5千石。 |
上杉景勝 |
かの上杉謙信の跡継ぎ。謙信は生涯妻を持たなかったので養子である。
関西の三成に先立って、領国会津で家康に反旗を翻す。三成と東西から挟み撃ちにする作戦だったが、すでにそれを予測していた家康は、伊達、最上といった東北の大名に後方を攪乱させ、その隙に西へ向かってしまう。関ヶ原で西軍が敗れた後も、徹底抗戦の構えを見せる景勝だったが、家名存続を条件に降伏。
義侠心に富んだ人柄で、決して凡将ではなかったが、家康の敵ではなかった。 120万石。 |
宇喜多秀家 |
関ヶ原戦の当時27才と、五大老五奉行中最若年。一時期秀吉の養子となっていたこともあり、豊臣家に対する忠誠心は人一倍強かった。 関ヶ原では西軍の主力として活躍するが、敗れて逃走。のち捉えられて八丈島へ流罪となり、そこで84才まで生きる。 57万石。 |
五奉行 |
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石田三成 |
五奉行の筆頭。治部少輔(じぶしょうゆう)という官職にあったことから「治部」などと呼ばれる。 19万5千石。 |
増田長盛 |
事務処理能力に長け、秘書官的な役割で秀吉に仕える。関ヶ原の際は西軍の中心として大阪城に入るが、家康に密告書を送るなど不穏な行動を取る。
毛利輝元が、三成から救援要請が来ても大阪城を動かなかったのは、長盛の裏切りを心配したためという説もある。敗戦時に家康の心証を良くするためと思われるが、結局許されず、高野山へ追放ののち切腹。 20万石。 |
長束正家 |
近江出身。経理に明るく、豊臣政権の大蔵大臣的役割を担う。五奉行の一人として西軍に参加したものの三成のような積極的意志はなく、関ヶ原でも
軍勢を率いて出撃していながら、結局傍観したまま終わってしまう。その後、自分の城に戻ったところを攻められ切腹。 12万石。 |
前田玄以 |
僧侶である。法律や朝廷のしきたりなどに詳しく、京都奉行として活躍した。関ヶ原戦では、やはり家康に内通し、こちらは許されている。 |
浅野長政 |
秀吉の正妻おねの義兄であり、早くから秀吉に仕える。奉行として行政一般を司ったが、武将としても活躍している。秀吉没後は早くから家康に取り入り、関ヶ原戦では息子・幸長を東軍に参加させている。 「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭はこの子孫である。 23万石。 |
注・・石高は関ヶ原戦当時のものです。